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房総頼朝伝説(20)復讐を埋めた塚 -頼朝の死と上総広常-

勝浦に抜ける国道297号の宿戸にあるセブンイレブンの駐車場の隣に大きな2本の杉の木が立っています。
DSCN2000.jpg
その大木に挟まれるように建っているのが「上総権介平君」碑、上総広常の兜塚と伝承されている塚です。DSCN2001.jpg

上総広常は桓武平氏で、千葉氏や三浦氏、和田氏とは親戚の間柄であり、東国で最大勢力を誇った武士でした。
猟島に上陸した頼朝がまず東を目指したのも、広常の庇護を得る為でした。
後日頼朝は「どうしてリベンジ成功できたん?」と聞かれ、「広常みたいな超大物を味方に出来たからだ」と答えています。鎌倉入りした時も館が出来るまで広常邸に宿泊しています。

そんな自他共に認める有力者ですから、「オレ程の天才が謙虚になるのは難しい(byモハメド・アリ)」とばかり、どうしても態度XLサイズになってきます。
平家の追討と、朝廷との関係強化に腐心する頼朝に対し「コッチに手出しできるわけねーしコッチはコッチで勝手にやろーぜ?」と東国独立を主張したり、馬から下りずに「ウィ~~ッス」みたいな態度で頼朝に挨拶したり、岡崎義実が頼朝から水干をもらうと「ちょwwwオメーみてーなジジーがもらってもしょーがねーだろw俺によこせコラ」と殴り合いのケンカ寸前まで行ったりしています。

註:「水干」というのは私よくわかりませんがエロ本の事じゃないかと思われます(`・ω・´)キリッ

さすがに頼朝も「こんなジャイアン侍うっざいわ」と、謀反の疑いをかけて梶原景時に暗殺を命じます。
寿永2年(1183年)12月、梶原景時は双六に興じる広常を突然刺殺すると直ちに朝比奈の上総氏の館を襲撃、嫡男の能常を自害に追い込みます。一族は捕らえられ、二万騎の動員力を誇った領地も千葉氏や三浦氏などに分配されてしまいました。

当主と嫡男を失った上、領地も奪われた郎党は呆然とするしかありません。
彼らに出来た唯一の抵抗が、鎌倉から広常の兜を持って帰り故郷の地に埋めて慰霊する事だったのです。
兜塚は現在、社殿こそ無いものの大杉八幡神社として祭られています。DSCN1996.jpg塚の周りの木々は、今なお広常を護る一族郎党たちなのかもしれません。

それから15年後の建久9年(1198年)12月、相模川に架けた橋のテープカットをしてルンルンの頼朝さんでしたが、帰りに八的ガ原という所でこちらにガツンとメンチ切ってる集団に出会います。
房総にいた頃なら間違いなく逃げたり隠れたりしてたであろうへタレ頼朝ですが、「アァ?征夷大将軍ディスってんのかよ?」とそのまま前を通ろうとします。

しかしよく見ればその集団は、源義広・義経・行家以下、かつて自分が死に追いやった人々ではありませんか!
亡霊たちは黙って頼朝の目を睨み付けてきます。
DSCN0341.jpgイメージ画像(ロケ地:安房勝山)
頼朝は必死に下を向いて只々視線の電車道に耐えました。

DSCN0356.jpgイメージ画像(ロケ地:安房勝浦)
耐え難い重い沈黙の責めから逃れホッとしたのもつかの間、稲村崎の海に安徳天皇が浮かび上がり、頼朝をなじりつつ消えていきました。
・・・サプライズゲスト達の手荒い歓迎を必死にやり過ごし何とか鎌倉に帰り着いた頼朝ですが、病を発し翌1月13日には彼らの元へ永遠に連れて行かれてしまいます。

果たして義経ら怨霊の列中に広常の亡霊も並んで頼朝を睨みつけたのでしょうか?
DSCN2002.jpg
私に言えるのは、国道297号を通っても広常の兜塚は何の悪さもせずそこに存在しているという事だけです。
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